傘をテーマにした芸術作品は絵画、音楽、演劇、映画など様々なモノがあります。
皆さんもいくつかはすぐに思い起こすことができるのではないでしょうか。今回はその中で「詩」について取り上げてみたいと思います。
詩を読むと、言葉が紡がれる中でイメージや感情などが心の中に沸き起こってきます。
これから紹介する3つの詩から「傘」について感じ取っていただければと思います。
傘の舞う風景、詩の響き 「傘」の詩について
傘のうち 島崎藤村
二人してさす一帳(ひとはり)の
傘に姿をつつむとも
情(なさけ)の雨のふりしきり
かわく間もなきたもとかな顔と顔とをうちよせて
あゆむとすればなつかしや
梅花(ばいか)の油黒髪の
乱れて匂ぶ傘のうち恋の一雨(ひとあめ)ぬれまさり
ぬれてこひしき夢の間や
染めてぞ燃ゆる紅絹(もみ)うらの
雨になやめる足まとひ歌ぶをきけば梅川よ
しばし情けを捨てよかし
いづこも恋に戯(たはぶ)て
それ忠兵衛の夢がたりこひしき雨よふらばふれ
秋の入り日の照りそひて
傘の涙を乾(ほ)さぬ間に
手に手をとりて行きて帰らじ
〈一口メモ〉
恋しい二人が一つの傘で相合傘になって高まる気持ちをうたっています。
近松門左衛門の心中物『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)』が途中に出てきます。破滅型の逃避行劇に自分を準えているところが恋した気持ちを表しているようです。
※相合傘について
(由来)
相合傘は江戸時代から用いられている語で、相合傘を書いて男女の間柄を表す落書きも江戸時代から見られます。
相合傘の「相合(い)」は、一緒に物事をしたり、共有・供用することの意味で、近所で共同に使う井戸の「相合井戸」、牛を供用する「相合牛」、男女二人が一本のキセルでタバコを吸う「相合煙管」など、「相合」の語は広く用いられます。
「相」も「合い」も、動詞「合う」の連用形で、「互いに」「一緒に」を表します。
(歴史)
大阪で出版された井原西鶴の『好色一代男』(1682年)の江戸における焼き直し版である菱川師宣の『やまとゑの根元』(1688年)で描かれた相合傘が、今のところ最初期のもの。また、同時代の英一蝶にも相合傘の図があるとのことです。
http://www.bijutsushi.jp/c-zenkokutaikai/pdf-files/11-5-22-am-1-3_kim.pdf
象とパラソル 室生犀星
象の耳はよたりよたりと、
消炭色(けしずみいろ)で、日があたり。
きみはその前で写真を撮った。
パラソルを手に携(も)ち、顔をかしげ、
にっと嫣笑(わら)って 気取って、
きみは象を背景にして撮影した。きみは象が巨(おお)きいと言って驚いた。
きみのはだかほど大きいものがないのに。
絵本、ボロの古洋服、
古新聞の活字の間を、
象はのそりのそりと歩いていた。
生きている証拠には 見なさい、
うまのくそのようなくそが一盛りあつた。
象はくそは踏まずに避けて歩いていた。
うまいもんだ。
きみはまた象の前で写真を撮(と)った。
〈一口メモ〉
動物園の像の前で写真を撮っていて、パラソルが周りの風景から浮かび上がっている様子が写実的に目に浮かぶ詩です。
※日傘の歴史(世界)
傘が使われ出したのは約4,000年ほど前と言われ、エジプト、ペルシャなどの彫刻画や壁画に残っています。ギリシャでは祭礼のときに神の威光を表すしるしとして神像の上にかざしていました。
紀元前7世紀のアッシリアの壁画には、国王の頭上に天蓋のようにかかげてあるのが描かれています。
インドでは傘はもともと酷暑の貴族や高僧の日除けに使われていて、吉祥をもたらす八つの物の一つと数えられています。
傘が一般的に使われ出したのは古代ギリシャ時代で、アテナイの貴婦人たちが日傘を従者に持たせて歩いている絵が残っています。そのころの傘は開いたままですぼめることはできませんでした。
別離 中原中也
1
さよなら、さよなら!
いろいろお世話になりました
いろいろお世話になりましたねえ
いろいろお世話になりましたさよなら、さよなら!
こんなに良いお天気の日に
お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
こんなに良いお天気の日にさよなら、さよなら!
僕、午睡[ひるね]から覚めてみると
みなさん家を空(あ)けておいでだつた
あの時を妙に思ひ出しますさよなら、さよなら!
そして明日(あした)の今頃は
長の年月見馴れてる
故郷の土をば見てゐるのですさよなら、さよなら!
あなたはそんなにパラソルを振る
僕にはあんまり眩[まぶ]しいのです
あなたはそんなにパラソルを振るさよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!(一部分のみ抜粋)
〈一口メモ〉
別れの寂しさを空虚な明るさで語っている切なさを感じる詩です。パラソルを振る姿が眩しいという個所が明るさと寂しさのイメージを映しています。
※日傘の歴史(古代東洋)
傘はまず魔除けなどの目的で、貴人に差しかける天蓋(開閉できない傘)として古代中国で発明されました。
日本書紀によると欽明天皇の時代には百済が仏具の傘である幡蓋を献上して来たとあり、導入当初から「唐傘(からかさ)」と呼称されたとの説が一般的です。
大宝元年(701年)の大宝律令では、貴族の身分によって、儀式等で用いる傘(きぬがさ=蓋・繖)の色分けが定められています。それだけ傘が律令体制の中で、重要な位置を占めていたことになります。
皇太子の蓋・・・・・おもて 紫、 うら ※蘇芳(すおう) ※蘇芳=黒味をおびた紅色。くすんだ赤色
親王の蓋・・・・・・おもて 紫の纈(しぼり)、 うら 朱
一位の蓋・・・・・・おもて 深緑、 うら 朱
二~三位の蓋・・・・おもて 紺、 うら 朱
四位の蓋・・・・・・おもて ※縹(はなだ)、 うら 朱 ※縹(はなだ)=明るい藍色
なお、法隆寺献納御物のなかに聖徳太子(574~622年)の蓋と称するものがあり、この布地は、おもてが紫、うらは緋色ということです。また、威儀用として、紫繖(しさん)・菅繖(かんさん)・菅蓋(かんがい)があるとのことです。