傘を取り巻く環境

日本における傘産業の拠点について

かつて1970年頃の日本の洋傘産業は生産高や輸出高で世界ナンバー1の地位にありました。
その後、生産拠点が韓国や台湾、中国に移っていく中、国内で消費される傘は輸入品が大部分を占めるようになっていきました。
歴史的な背景から、日本国内で洋傘生産が盛んだった地域が何か所かあります。洋傘産業の歴史的な流れと各地の状況について紹介します。

近代日本の洋傘産業

経済産業省の工業統計調査によれば、調査対象の洋傘産業は1960年代から1970年代にかけて、約1000の事業所が存在し、従業員数は6,000~7,000人ほどでした。しかし、その後の展開は1963年をピークにして停滞し、その後は減少傾向が続きました。2010年代に入ると、事業所数は50を下回るほどまで減少しました。

特に1970年代半ばには、洋傘の製造や卸売りが盛んでした。この時期、東京(25%)、大阪(30%)、京都(20%)、愛知(10%)、岐阜(5%)などに事業拠点が展開されていました。
地域別に見ると、茨城や神奈川などの関東地方、大阪や京都を中心とする近畿地方、そして岐阜や愛知を主に含む中京地方に事業が広がっており、これらの大都市圏で洋傘産業が発展していました。
特に大阪は出荷数量の30%を占め、全国で最も洋傘の製造地となり、洋傘の骨組みにおいても出荷量の70%、事業所数においては40%を占め、全国トップの位置にありました。

国内市場供給について1976年からの推移を以下のグラフで見てみると、数量面では徐々に増加し続け2010年ごろをピークに徐々に減少していますが、金額面では1992年をピークに下がり続けます。
2004年を底にいったん持ち直しますが2014年から再び減少していることが見て取れます。これは2000年から2010年にかけて一本当たりの単価が低いビニール傘が大量に中国から輸入されていることが原因と思われます。
輸出を含む国内事業者の出荷については、1990年代前半より急激に減少し約20年間で20分の1程度の規模になりました。
それ以前より円高等による台湾等の海外からの低価格品との厳しい価格競争がありましたが、バブル崩壊後の長引く景気低迷と中国製低価格輸入品の増加が重なり国内生産は大きく落ち込みました。
その後2011年頃より中国等における人件費の高騰などにより市場規模は増加し2018年頃まで300億円ほどでしたが、2020年よりコロナ禍の影響で消費が大きく落ち込み200億円台半ばとなっています。

※上下グラフとも2020年と2021年の国内事業者出荷分のデータなし

洋傘産業の傾向

洋傘産業の特徴として、通年ではなく主に1月から8月に製造が行われ、その他の期間は生産量が減少します。このため、かつては冬季にはネックアクセサリーやショールなどの衣料品も手がけていました。
季節の影響により、事業計画の立案が難しい側面もあります。しかし近年は日傘や晴雨兼用傘の需要も増え、季節要因の影響が緩和されてきています。

また、洋傘産業は国の産業構造の変化にも影響を受けています。国内産業は軽工業から重工業、そして第3次産業へと変遷してきましたが、洋傘製造業は都市型の軽工業に分類されます。これが、時代の流れとはずれてしまい、国内洋傘産業の競争力低下の一因となった可能性があります。
国内製造品が安価な輸入品と競争するために、大量生産の日用品よりも伝統工芸品などの付加価値を持つ高級ファッションアイテムとして位置づける例も見られます。
過去の戦後隆盛期と比べると、現代の洋傘産業は内容や規模において大きな変化が生じています。

全国の傘産業を行っている地域  東京の洋傘産業

主な地域:中央区、台東区、墨田区、北区

1872年(明治5年)ごろ、青木基次は東京の本所長岡町(今の墨田区亀沢)に洋傘製造会社を設立し、本格的な洋傘の生産を始めました。
そして1890年(明治23年)、洋傘の骨の材料を輸入していた河野寅吉は、「溝折受骨(みぞおりうけぼね)」という、鋼材の断面がU字型で丈夫な骨を自ら作り、洋傘全体の国産化に成功しました。さらに寅吉は、飛上傘(現在のジャンプ傘の前身)や引締傘(現在の折りたたみ傘の前身)の開発にも取り組みました。

参考:東京産業労働局TOKYOイチオシナビ 東京洋傘
https://chiikishigen.tokyo/introduction/details/introduction_76.html
出典:地場産業振興ビジョン 洋傘製造業  東京都労働経済局商工部 繊維雑貨課編より

洋傘製造業は明治時代以降、外国から導入された産業で、金属部品加工や雑貨製造の地域で成長しました。洋傘の主要な産地は大阪で、東京の一部は台湾などへ生産が移されています。
1994年の統計によれば、東京の男性用洋傘の生産額は130億円(全国シェア1.8%)、女性用は315億円(同3.1%)でした。
東京の洋傘製造業は古い歴史を持ち、多くは戦前に創業されましたが、全体的に小規模な企業が増えています。従業員20人以下の企業がほとんどで、10億円以上の生産額を持つのはわずかです。中・高級品や特殊用途の傘を専門に生産する企業が多いです。
これらの企業は卸売業も行い、縫製・組立、デザイン、部品の製造・加工などを手がけます。一部の企業は製造と卸売りの両方を手掛けています。

上記文章の出典資料年代:2014年

2023年現在としては、生産工場はほとんどが中国に移り(中国企業に製造発注し日本へ輸入)、一部の高級傘についてのみ国内で製造している状況です。ただし中国も経済発展が続き人件費等のコスト増がみられるため、ベトナムやカンボジアなどコスト軽減が見込まれる他の国へ生産拠点が移り始めています。

大阪の洋傘産業


明治5年に大阪で洋傘の製造が始まり、昭和45年頃には日本は洋傘の生産量や輸出、需要の面で世界一の地位にありました。この頃、大阪は全国の生産の約50%、輸出の約90%を担っていました。
大阪の洋傘骨工業は特に明治30年代後半から急速に発展し、大正初期には国内での需要や輸出が増えました。大正15年には輸出洋傘骨工業組合が設立されました。この時期、洋傘骨の主要な材料供給地として、洋傘骨工業の集積地域の中心に共同工場が設立されました。これが洋傘骨工業地域の形成を牽引しました。
その後、この地域は労働力と土地の利用が安価であったため、大阪の輸出機能が成長しました。全国の洋傘輸出の90%、洋傘骨や部品の輸出の80%が大阪から行われるほどでした。そしてこの基盤をもとに、洋傘骨部品が標準化され、大量生産を促進する組み立て方式が採用されました。これにより、多くの需要に応えるための小規模な家族経営の工場が増えました。
洋傘骨工業の成長には転業も寄与しました。洋傘骨工業の集積地域が金属工業が盛んな地域に位置していたため、技術的なノウハウを持つ一家専従の零細工場が高い付加価値を持つ部門に転換することで成長しました。

岐阜の洋傘産業


岐阜県では1952年頃、洋傘の出荷額が和傘を上回り、その後、和傘の製造卸が主体となって洋傘に転換してきました。
岐阜県の郷土工芸品である岐阜和傘は、1639年(寛永16年)に松平(戸田)光重が明石から加納へ移る際、傘職人を連れてきたことから始まりました。武士の副業として奨励されて生産が増え、戦後初期には年に1千万本以上もの和傘が生産されていました。
しかしながら、洋傘の普及と共に和傘の需要は激減しました。現在、国内の和傘市場のうち6割以上を岐阜県が占めていますが、職人の高齢化と後継者不足が深刻な課題となっています。

新潟の洋傘産業


新潟では国内有数の傘メーカーであるオーロラが拠点を持っています。以下はインターネット上で見ることができる工場の紹介記事です。

オーロラの新潟センター 国内唯一の洋傘工場として誇りを持つ 手作業でこだわりを追求
繊研新聞
https://senken.co.jp/posts/aurora-niigata

市報たいない 2010・8・1 No.119
オーロラ㈱新潟センターは昭和45年11月操業開始、本年で40年になります。当時の黒川村に誘致企業として若林㈱黒川工場で創業しました。当初は、海外向けの輸出用雨傘を中
心に製造していましたが、徐々に国内向けの製造に移行し、黒川工場でも海外ブランドの傘や高級傘も製造するようになりました。骨も、鉄から 錆びない軽いグラスファイバーやカーボンを使用し、高級傘、軽い傘を求めるお客様の要望にしっかりと応える商品づくりに取り組んでいます。社の創業100年を機にオーロラ㈱に社名変更し、近年は数十種類の有名ブランドの傘を製造しております。当社では雨傘、晴雨兼用、パラソルのほかに婦人紳士帽子、マフラー、レイングッズなどを扱いお客様に安心して使用してもらい、ブランド、デザインともに喜んでもらえる商品づくりに社員一丸となって取り組んでいきます。

“オンリーワン”の傘を…国内唯一の洋傘工場に潜入 ミリ単位の修正も…手作業が生み出す“技術の粋”【新潟発】
https://www.fnn.jp/articles/-/368348

茨城県古河市の洋傘産業


かつては東京の周辺都市として洋傘産業が栄えましたが、現在は数件を残すのみとなっています。

1979年(昭和54年)発行「東京洋傘産業史」の「古河の洋傘産業」によると以下の記載があります。

「もともと古河は戦前番傘の産地であったから番傘から洋傘へ洋装革命の波に乗る素地を持っていたといえる
1947年(昭和22年)頃、旧満州からの引揚者が古河で洋傘の生産の着手し古河を洋傘の産地として基礎づけた。
その後、洋傘製造の協同組合を結成し、洋傘製造に向けて地域として向上に努めたことにより全国的な産地として成長した。また東京都内の内職加工が経済成長により難しくなり、東京の外周都市へ延長したことが要因の一つとなった。そして1978年(昭和53年)には年産600万本に達した。」

Web上では当時の様子が動画でわかる以下の情報も公開されています。
■茨城県ニュース No.11 古河の洋傘に注文殺到する
・古河洋傘協同組合での洋傘製作作業風景
1953(昭和28)/--/-- 古河市
https://www.youtube.com/watch?v=_jmmsE04T7Y
https://www.pref.ibaraki.jp/bugai/koho/hodo/natsukashi-ibaraki/contents/documents/ibn-011.pdf
■茨城県ニュース No.23 古河の洋傘 生産に大わらわ(大童)
・古河市洋傘商工協同組合の洋傘製造の様子。
1958(昭和33)/--/-- 古河市
https://www.youtube.com/watch?v=N-MNbkqMlZg
https://www.pref.ibaraki.jp/bugai/koho/hodo/natsukashi-ibaraki/contents/documents/no001_078.pdf

「カサで生きる町」 1959年(昭和34年)5月22日 中日映画社
https://www.youtube.com/watch?v=ZdPeGRGYTDE
生糸生産に見切りをつけ、洋傘産業で生き残りを賭ける茨城県古河市のとある傘業者に密着。この産業を支えているのは女性たちで、乳飲み子を抱えた若奥さんから、お婆さんに至るまで、粉骨砕身で働く姿が胸をうつ。生糸産業から締め出された女工さんが、安い日当で作る傘。
かつては古河も群馬県富岡市のように製糸産業で栄えました。1940年(昭和15年)頃までは大いに栄えましたが、その後安価な中国産の糸の輸入で衰退していきました。

2021年12月 広報古河
昭和初期、市内には洋傘を製造する店舗が多く、古河は傘づくりも大変盛んな町でした。しかし、かつては70軒以上あった店舗も、今では1軒のみ。
https://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/material/files/group/1/R3_koga12.pdf

山梨の洋傘(生地)産業


山梨県の東部地域は昔から「郡内」と呼ばれており、有名な郡内織りや甲斐絹の故郷として知られています。甲斐絹は、富士山の雪解け水で染めた織物で、特有の輝きがあり、海の色彩が変わるさまを表現して「海気」と称され、後に「甲斐絹」と書かれるようになりました。
この甲斐絹の伝統は、今では「甲州織」として引き継がれており、その美しさや豪華さは洋服の裏地や座布団の地、ネクタイ、バッグ、洋傘の生地などに受け継がれています。

山梨県は富士山のふもとに位置しており、この地域では農業に向かない火山灰地が広がっていました。そのため、桑の木だけが育ちました。桑の葉を食べる養蚕業が盛んになり、絹織物から洋傘の生地を作る産業へと成長していったのです。

八王子の洋傘(生地)産業


八王子は「桑都」と呼ばれ、昔から養蚕や織物が盛んでした。特に織物産業は明治時代から八王子の主要な産業として成長しました。
第二次世界大戦で甚大な被害を受けましたが、戦後に政府の支援を受けて八王子の繊維産業は復興し、戦前のレベルまで回復しました。1949年には繊維関連の統制が撤廃され、戦後の衣料不足から織物の需要が増えました。このため、(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる「ガチャ万景気」として知られる景気拡大が起こりました。
八王子はネクタイを中心に傘地やマフラーなどの雑貨織物にも進出し、1956年には全国のネクタイ生産量の6割を占めていました。このように八王子は再び繊維産業の町として脚光を浴びました。

八王子の場合、山梨県への外部委託が多く行われました。これにより、山梨県が八王子の織物工程の工場を担うこととなり、広域な八王子と山梨県のクラスターが形成されました。
そして傘の生地の生産も山梨県へ移行しました。

福井の洋傘産業


羽二重(たて糸2本、よこ糸1本で織る平織り技術で柔らかく光沢のある織物)の生産が始まる前から、福井市を中心に洋傘地や絹のハンカチーフの生産が始まっていました。
福井県では明治時代以降、輸出用の洋傘地や絹のハンカチーフを作る試みがありました。しかし、広く需要のある織物を作ることが賢明だと考えられていました。1890年代初めから羽二重の生産が急速に増え、1913~1914年には高級品として二重張りの羽二重が流行しました。

今では、福井県の地域工芸品として越前洋傘が指定されています。以前は北陸地域には約800社の傘メーカーが存在していましたが、現在は1社のみとなっています。

産経新聞 800分の1を勝ち取った傘メーカーの生き残り戦略
https://www.sankei.com/article/20200319-R6KZAAWFKNMOTIWTEZKUDWWF6U/

和傘の盛んな地域

明治以降に洋傘は日本国内に広まっていきましたが、第二次世界大戦後くらいまでは、和傘の製造は各地でまだまだ十分に行われていました。

(参考)和傘の生産地域

全国には岐阜県や福岡県など、和傘を伝統工芸品と指定している地域が存在します。昔、和傘の主な産地として、以下の地域が挙げられます。

•難波・高津:1570年代(秀吉の時代)以前から和傘の産地として栄えました。
•福岡:文録年間(1592~1596)頃から和傘の生産が始まりました。
•伊賀:戦国時代(1600年前後)、藤堂高虎が領内で傘作りを奨励しました。
•紀州:元和元年(1615年)、徳川頼宣が赴任し、傘工を入国させて和傘の産業を奨励しました。
•広島:同じ頃、安芸藩では紀州から傘工を移住させ、藩士の内職として番傘作りを行いました。
•岐阜:寛永12年(1635年)、松平丹波守光重が傘屋金右衛門とともに加納城へ赴任し、傘作りを奨励しました。また、宝暦6年(1756年)には加納藩主伊賀守尚陳が傘作りを藩士の内職として奨励しました。山本紋兵衛という家臣の技術指導により、「山本傘」として知られる傘が発展しました。明治時代まで続きました。文政・安政年間(1818~1859)には、領内だけで50万本ほどの和傘が生産され、江戸でも「加納傘」の名が広まりました。
•高岡:寛永年間(1698~1743)、前田利長が傘の生産を奨励しました。元禄年間(1698~1703)には、加賀、新潟、熊本などでも傘の生産が盛んになりました。

江戸の和傘

江戸時代、御家人たちは傘張りを内職として始めるようになりました。
特に青山地区が有名で、御家人の内職は傘細工が8割、春慶塗りなどの塗り仕事が2割の割合で行われていました。彼らは最下級でも70坪の広い敷地を持っており、傘を乾燥させるのにその広さが活用されました。

1736年には、青山浅河町の住人である源兵衛と萬右衛門を代表とする30人の人々が、傘屋挑灯屋組合の設立を町奉行所に願い出ました。傘と挑灯は竹骨に紙を張る共通性があり、両方の仕事を兼業することも行われました。また、1829年の『御府内備考』には、浅河町の辺りを「傘町」と呼んでいるとの記述があります。

1874年の『大和道しるべ』によると、「青山から麻布の辺にかけて傘を作るもの甚だ多し。故に空地ある所には、これを乾かすさま、秋雨雨後の菌の如し・・・」とあり、この地域が未だに傘作りで注目を集めていたことが分かります。

1872年の『東京府志料』によれば、府内で和傘を作っている地区は百余りあり、合計で22万6千本余りとなっています。そのうち青山地区だけで約35%にあたる78,600本を生産しており、隣接する原宿、麻布、飯倉を含めれば15万9千本余りとなり、ほぼ7割の生産量を占めていました。
当時の平均単価は16銭余りでした。同じ年、東京では西洋傘と蝙蝠傘が合計で17,470本製造されており、平均単価は西洋傘が88銭、蝙蝠傘が85銭でした。また、5ダースが輸入され、その単価は68銭でした。
当時の東京の人口は80万人でした。明治4年の名古屋では、1円で米2斗9升や酒1斗を購入できた時代でした。

まとめ

日本には6世紀ごろに中国から傘が伝わり1400年ほど経ちます。今から200年ほど前に洋傘が日本に伝わってきました。それまで長く続いてきた和傘と後から入ってきた洋傘の関係が、地域によっては和傘から洋傘へ移っていたり、地域によっては全く関係なかったりして地域ごとに違いがあることが判りました。

和傘製造の盛んだった地域と洋傘製造が盛んであった地域は、東京においてはまったく別の地域であり、和傘製作から洋傘製作に移っていったということはないのではないと考えられます。

全国の洋傘製造が盛んであった地域を見ていきましたが、以前に比べだんだん国内製造も規模が小さくなってきています。産業や技術は一度絶えてしまうと再興は難しくなりますので、国内の洋傘産業を絶やさぬよう国内製造の高品質な傘を手にしてみてはいかがでしょうか。

参考図書

日本洋傘歴史と名鑑 今村良之祐
名古屋の洋傘・ショール歴史年表 組合三十年史  監修 長谷川栄治 、名古屋洋傘ショール商工業協同組合 、
業種別審査事典 第2巻
洋傘・ショールの歴史
大阪の洋傘工業
『30年のあゆみ』 洋傘タイムス編集