大河ドラマ「光る君へ」で注目される平安時代ですが、この頃は「傘」を使っていたのでしょうか?
気になったので傘全集では当時の様子を調べてみました。
平安時代の傘事情 光源氏は傘を使っていた?
ちなみに「平安時代」とは
「鳴くよウグイス平安京」で平安京が京都に遷都した794年を覚えたことがある人は多いかと思います。
平安時代は約400年続くなかで、日本独自の国風文化が生まれます。平仮名・片仮名が発明され、日本語の表記が容易になり、源氏物語に代表される和歌・貴族生活の日記・恋愛物語の女流貴族文学の隆盛などの国文学が繁栄して貴族文化が誕生しました。
「源氏物語」とは
その平安時代の中期に成立した『源氏物語』は、主演の吉高由里子演じる紫式部によって書かれた日本最古の長編物語、小説です。全54帖、文献初出は1008年(寛弘五年)、平安末期に「源氏物語絵巻」として絵画化されました。
同じころの他の女流貴族文学としては、ファーストサマーウイカ演じる清少納言による「枕草子」、財前直見演じる藤原道綱母による「蜻蛉日記」、凰稀かなめ演じる赤染衛門による「栄花物語」、菅原孝標女による「更級日記」、和泉式部による「和泉式部日記」などがありました。
平安時代に傘はあった?
日本への傘の伝来
日本の傘の歴史は552年に百済の聖明王の寄進で蓋(きぬがさ)が伝来したことから始まったといわれています。
きぬがさは、主に絹の布地を張り、天井部(石突)を長い柄の先端から吊るすようにして用いられました。
これに対して、「傘の歴史と民俗1 ―和傘の成立と展開―」によると、柄が傘の中心部を貫くような構造にしたのを「おおがさ」と呼び、絹布のほか、菅や竹製のもあり、雨にも使用することができました。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう:934年頃に作られた漢和辞書)に「柄の有る笠」としてあります。これが後の「長柄傘(ながえがさ)」となり、実用的な蛇の目傘や番傘などにつながってきたといわれます。この時代の傘はまだ開閉ができるものではなく、貴人に差しかけられて日よけや魔よけ、権威の象徴として使われていました。
長柄傘(ながえがさ・ながからかさ)
紙張りの長柄傘が出たのは、平安時代の寛平年間(889~897)といわれ、この頃には、紙に油を塗った雨用の傘も出ています。
前出の和名類聚抄には、旅行用の道具として、蓑笠(みのがさ)と並べて「おおがさ」を載せています。また後撰和歌集(ごせんわかしゅう:956年頃に成立した和歌集)に「雨の降る夜に、おほかさ(おおかさ)をひとつにつかはしければ・・・・・」とあり、権記(藤原行成の記した日記)の長保2年(1000年)11月3日条には、藤原頼明が出掛けた先で雨が降り出したので「笠を指す」とあります。
このあたりになりますと傘が権威の象徴や儀式用から、雨を避けるための実用的な利用へ一歩近づいたことになります。
しかし、長柄傘は、お伴の者が長い柄を支えて前の主人に差し掛けるようにして用いられたもので、その恩恵を受けるのは上流階級層だけでした。
女流作家らの作品に出てくる傘(からかさ)
枕草子
『枕草子』は長保3年(1001)頃に成立したという清少納言が記した随筆です。
枕草子211段では「人の家につきづきしきもの 厨。侍の曹司。箒のあたらしき。懸盤。童女。はしたもの。衝立障子。三尺の几帳。装束よくしたる餌嚢。からかさ。かきいた。棚厨子。ひさげ。銚子。中盤。圓座。ひぢをりたる廊。竹王繪かきたる火桶」と書かれていて、人の家にあるとピッタリくるモノの一つとして「からかさ」を取り上げています。
ただ、ここでいう「人の家」とは、貴族の家のことです。
枕草子232段では「雪高う降りて、今もなほ降るに、五位も四位も、色うるはしう、若やうえのきぬかなるが、袍の色いと清らにて、革の帯のかたつきたるを、宿直姿にひきはこえて、紫の指貫もからかさ雪にさへ映えて、濃さ勝りたるを着て、袙の紅ならずは、おどろおどろしき山吹を出して、傘をさしたるに、風のいたう吹きて、横さまに雪を吹きかくれば、少し傾けて歩みくるに、深き沓、半靴などのはばきまで、雪のいと白うかかりたるこそ、をかしけれ」と書かれていて、実際に強い風雪の中で傘を使っている様子を表しています。
更級日記
『更級日記』の作者は菅原孝標の娘で、寛仁4年(1020)から康平2年(1059)までの40年間の日記です。
その冒頭、寛仁4年、父菅原孝標の上総介(千葉の長官)の任が終わり、九月に上総国府を出立あそびして京に向かう途中、足柄山(神奈川県・静岡県)の麓で遊女たちに出会い、印象深い一文を書きました。「遊女三人、いづばかりいほくよりともなく出できたり。五十許なるひとり、二十許なる、十四五なるとあり。庵のまへにからかさをさヽせて、すへたり」と記してます。
「おおがさ」や「きぬがさ」といわれるそれまでの簦や蓋は、律令の身分制の規定の中で用いられた威儀具(いぎぐ:豪族が権力を誇示したり、民衆を統率し、支配するために使用した道具)ですが、唐傘(からかさ)は律令制の規定外で使われ始めたと考えられています。
竹と紙を主材料とする唐傘は比較的安く、開閉ができ、持ち歩きや保管が簡単で、紙に油を縫っているので、雨具にもなる、というたくさんの利点もあったようです。
からかさの由来
奈良時代には、「からころも」という言葉は韓国から輸入された衣服を指しましたが、平安時代になると「から(唐)」という言葉は中国や中国風の意味も持つようになりました。そのため、平安時代中期に登場する「唐傘」という言葉は、中国製の傘または中国風の傘を意味するといわれています。
また、「からかさ」の他の由来案として、柄が付いていることから柄傘(からかさ)や、傘を閉じたり開いたりできる「からくり傘」が短縮されたから、とも言われています。
平安中期当時の中国は宋朝で、この時代は庶民文化が栄えた時期でした。宗では権威や権力を象徴することが目的の蓋や簦と違って、日常的に傘が使用されていたようです。
下図の「清明上河図」は宮廷画家の張択端(1085?―1145?)が12世紀の北宋の都開封の都城内外の様子を克明に描いたものですが、傘をさして橋上を歩く人や馬に乗って傘をさす姿、道のわきの大傘なども見られます。それらの傘が日宋貿易で輸入され、次第に日本でも生産されるようになったと考えられます。
『源氏物語絵巻』の傘
『源氏物語絵巻』は源氏物語を題材にした平安末期の絵巻で、国宝に指定されています。「蓬生」はその中の絵の1点で、ある初夏の月夜、光源氏が彼の訪れをひたすら待ち続ける常陸宮の姫君末摘花の荒れ果てた邸を訪れる場面です。
「御さきの露を馬の鞭して払ひつゝ入れたてまつる。雨そゝきも、猶秋のしぐれめきてうちそそけば、御傘さぶらふ。げに木の下露は雨にまさりてと聞こゆ」とあります。
従者惟光は馬の鞭で生い茂った草の露払いをする。雨の降りそそぐ中、木から落ちる滴も多く、光源氏は傘を差し掛けられます。
また、平安時代は「傘」ではないのですが関連する「笠」として市女笠(いちめがさ)が使われていました。これは上流女性が外出時に顔を隠すために使用するモノであり、男性貴族も雨天時に使用していました。
まとめ
平安時代は日傘や権威の象徴として身分の高い人に対してさしかけるタイプの絹笠や大傘から、源氏物語や枕草子にも傘について書かれているように自分で雨や雪を避けるためにさす唐傘が広まっていった時期のようです。
まだこの時代では貴族など限られた層にのみ傘は使用され、一般庶民まで傘を使用することが広まりはしていないようです。しかしながら、700年ほど経過した江戸時代には番傘や蛇の目傘などが庶民に使われるようになります。
傘が使われていることが判りましたので、もしかしたら平安時代のドラマの中でも傘を使っている場面が登場するかもしれないですね。
参考文献
傘の歴史と民俗1 ―和傘の成立と展開―
段上達雄
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/gk02404.pdf?file_id=10126