傘と文化との関係

和傘の種類と江戸の傘張について

日本人が世界で1番傘を多く所有する国民なのはご存じでしょうか。
2014年の調査で「自分の傘、何本持ってますか?※」という質問に対し、世界平均が2.4本に対し日本は3.3本でした。世界一の背景には、傘に対する親しみがDNAに刻み込まれているからではないでしょうか?
そこには現在主流で使われている洋傘が明治時代に日本に伝わる前から人々の身近にあった和傘(蛇の目傘・番傘)の存在がポイントと思われます。
今回は和傘について由来や種類、昔の様子などについて調べてみました。

※ウエザーニュースGlobal Umbrella Survey Results https://weathernews.jp/smart/umbrella_survey/result/

和傘の由来

和傘は4世紀ごろ仏教文化とともに中国より日本(大和朝廷のころ)に伝わってきました。
当初は身分の高い人の後ろから付き人が日よけや魔除けとして差し掛ける開閉のできない大きな傘で、権力の象徴としても使用されていました。
その後、江戸時代になると和傘を固定する方法としてハジキが伝わり、ろくろやハジキの器具の開発により自由に開閉できる和傘になりました。
閉じることができる傘なら場所を取らずにかたずけることができるので、身分の低い人の狭い家でも傘を持つことができますね。

和傘の種類

番傘

もともとは、紙が厚く、骨竹の削りが粗く、荏油(えのあぶら)を引いたもっとも安価な雨傘です。
番傘の持ち手は竹のままを使用し、素竹の良さをいかしたシンプルで少し太めの和傘です。
番傘の名前の由来は諸説ありますが、商家では店の者が使用し、大きな商店ではにわか雨のおりに貸すために屋号の印や、「子(ね)の十五番」などと番号を入れ、それが番傘とよばれたとも言われています。
また、18世紀初めのころに大坂の大黒屋が大黒天の印を押して「大黒番傘」を売り出し全国に広まりました。その後、印や判を入れた傘を「伴傘=番傘」となったとも言われています。

蛇の目傘(じゃのめがさ)

蛇の目傘は、17世紀終わりごろに番傘を改良して考案されました。
傘を開くと、紺や赤など基本となる色に白く太い円が広がり、この模様が蛇の目(へびの目)に見えるところから「蛇の目傘」の名が生まれました。
徳川8代将軍吉宗の時世に、傘に定紋をつけることが起こり、これが女性や通人の間で流行しました。
享保・元文(1716~41)のころから、柄を細くした軽い傘が好まれ、のちにはこれを細傘といって腰にさして歩きました。
蛇の目傘は、江戸時代に歌舞伎の小道具として使われた事をきっかけに、流行しました。
歌舞伎人気演目の一つ「助六由縁の江戸桜」の主人公、助六の小道具として、現在も使われています。

爪折傘(つまおれがさ、端折傘)つまおり、つまおりたてがさ

傘の骨の端を中へ折りまげた長柄の持傘です。公家の参内をはじめ、外出の際に、袋に納めて傘持ちの従者に持たせるのを例としました。
貴人に御付の者が後ろから差し掛ける傘で、人を傷つけないよう親骨(油紙を支える長い骨)の端が内側に折れ曲がっており(端折)、爪を折った(爪折 → 妻折)傘という意味です。

紅葉傘

女性用の持ちが華奢なつくりで、中央を青土佐紙、周囲は白い紙で蛇の目に張った雨傘です。
骨も柄も細めにつくり、開閉装置のからくりに糸飾りをしたのが特色で、貞享(1684~1688)ごろから江戸に流行し、初めは日傘にしたということです。

和傘を使うときのポイント

和傘に使われる和紙は非常に強い紙ですが、いかんせん紙には違いないので、雨具として使用される番傘や蛇の目傘には、油を塗って防水加工をしています。
和紙を長持ちさせるためにも、梅雨の時期などのお天気の悪いときは、長めに乾かすことをお勧めします。

和傘は、洋傘のように柄を持つのではなく、和傘を畳んで柄を下側にした和傘の頭頂の「カッパ」と呼ばれるカバーが掛かった部分を持ちます。
通常、このカッパ部分を持つと傘が広がらないようにできています。
傘がびしょ濡れの時、カッパ部分を持つと手が濡れてしまいますが、雨水が防水加工されていない内部に入るのを防ぐ持ち方になります。
傘を立てかけるときも同様に、柄を下、カッパを上にして立てかけるのが正しい和傘の置き方です。
洋傘とは反対ですので、注意が必要です。

構造について通常、洋傘の骨は6本または8本ですが、和傘は16本や24本の骨でできています。
このため、同じ素材であれば和傘のほうが構造上丈夫であるということができます。
明治時代に洋傘が普及するまでは、和傘はその丈夫さと利便性によって、庶民の生活の中で、広く使われていました。

江戸の傘張について

彩画職人部類より傘張(からかさはり)

彩画職人部類より 傘張(からかさはり)

皆さんご存じの時代劇における浪人(仕事を失った武士)の定番仕事です。
元禄年間(1688〜1703年)ごろから江戸でも竹骨と油紙を使った傘の製造が本格的に始まりましたが、現代の貨幣価値に直すと傘1本で1万円を超え、江戸の庶民には高値の花でした。
そこで、古くなって紙が破けた傘を買い歩く「古骨買い」という職業が誕生しました。傘の傷み具合によって1本100〜300円で買い上げ、それに新しい油紙を張って「張替傘」として、5000〜7500円で売ったということです。
これで、何とか庶民も買えるようになったそうです。今の時代的には使えるものを繰り返し使うリユースにあたりますね。

この油紙を張り替える仕事こそが、時代劇でたびたび登場する傘張り内職です。実際、多くの浪人が、せっせと張り仕事に精を出していたようで、特に青山百人町(今の港区の青山)に江戸警護を目的とした鉄砲隊百人組の一つ甲賀組があり、そこには熟練者が多かったということです。
平和な江戸の世で、本来の仕事がなくなった忍者の末裔が、傘張り内職で食い扶持を得ていたようです。

今の東京メトロ銀座線の外苑前や青山一丁目、表参道のあたりが傘張りの中心地で「傘町」といわれていたようです。近隣の原宿や麻布、飯倉あたりも和傘作りをしていた地区とのことです。今ではおしゃれな街として有名なエリアですが、当時は傘張を熱心に行うエコなエリアだったようです。

守貞謾稿 巻6より著者 喜田川季荘 編

守貞謾稿 巻6より「古傘買い」 著者 喜田川季荘 編

古傘買い・・・浪人が古い傘を買い、油紙の張替え、竹の骨を削りなおして売ること。
使用済み油紙はさらにリサイクルし、肉や魚などを包んで使ったとのことです。環境にやさしい循環型社会の一例といえますね。

経済産業省の指定する伝統工芸品に岐阜和傘がありますが、岐阜県は現在でも和傘の中心的な生産地になります。

まとめ

戦前に年間1000万本近くの生産をしていた洋傘は戦争によりほとんど生産できなくなりました。
終戦後も鉄などの材料がないため洋傘の生産ができないところ、地元で材料の調達ができる和傘がたくさん生産されました。
そのころの年間1500万本以上の和傘生産をピークにその後はどんどん減少していくことになります。
昭和30年代には洋傘と和傘の生産量は逆転し、現在では日用品としての和傘の使用はほとんど見かけることが無くなりました。

傘好きな日本人として、時には和傘も手にしてみてはいかがでしょうか。
また、テイストが和傘に似ている多本数骨の洋傘もありますので、使い勝手のいい和傘風の傘として、こちらも手にしてみてください。

日本各地の傘産業の盛んな地域についてまとめた記事です。和傘についても書いてます。