傘と文化との関係

「蝙蝠傘」って聞いたことあります?由来や歴史などを解説

最近はあまり聞かなくなりましたが、以前は長い雨傘のことを「こうもりがさ」と言ってました。
蝙蝠傘(こうもりがさ)という言葉は、あらためて考えるとちょっと変な言葉ですよね。
由来元のこうもりも実物はあまり見かけることがなく、本や映像で見るくらいですので、傘とどのように結びつくのかわかりにくいのではないでしょうか?
そんな蝙蝠傘について、名前の由来など調べてみました。

そもそも蝙蝠とは

蝙蝠の属する翼手目は、哺乳類の一部です。
世界には約1,000種類の翼手目の動物がいます。日本には100種類以上の在来種が知られていて、外来種を含めると130種類以上が生息しています。
翼手目の特徴は、前足と指が非常に発達していて、それらと胴体・後ろ足・尾の間に薄い翼が広がっています。動物の中で唯一鳥のように飛び回ることができます。視力はあまり良くないですが、声から超音波を出して、反響を聞きながら物との距離を測ります。
夜行性で、昼間は、後ろ足の5本の指にある鋭いかぎ状の爪で木や岩にぶら下がっています。

コウモリという名前は、彼らが蚊をよく捕まえることから「蚊屠り(かほふり)」と呼ばれるようになった説があります。また、昔から家を守る動物が「ヤモリ」で、井戸を守るのが「イモリ」のように、川辺を守る動物は「かはもり→コウモリ」という名前になったとも言われています。

一般的にコウモリと聞くと、西洋では吸血鬼と関連づけられるイメージがありますが、実際に吸血するのはごくわずかで、ほとんどは植物や昆虫などの小動物を食べます。
コウモリは鳥にも獣でも見えることから、イソップ物語のようにはっきりしない態度を持つ人や、状況によって都合の良い方につく人を指す言葉としても使われます。

蝙蝠傘の語源は?

なぜ、「蝙蝠傘」になったかといえば、西洋からきたその傘を広げた形が、あの「蝙蝠」に似ていたからだとされています。
その頃(幕末から明治初めにかけて)の渡来傘は、今よりも構造が武骨で張り生地も黒だったことから、夕方に飛び回る蝙蝠の羽を広げた姿を連想したといわれています。
当時は蝙蝠傘の他に、洋傘、西洋傘、唐傘、南京傘、異国傘などの呼び方もされていました。

蝙蝠傘は、和傘と違って、傘をつぼめるとステッキにもなるのが珍しく人気が出ました。
明治初期の文明開化の商品として、シャッポ(帽子 フランス語から)、洋服、靴とともに男性の持ち物でした。
当初の傘の骨は丸棒でしたが、のちにU字形のものも現れました。
1871年(明治4年)に断髪令が発布され、散髪が流行するに連れて、帽子を被る人も増えてきて、洋服を着て洋靴を履き、洋帽をかぶって蝙蝠傘を持つのが当世の君子とされました。

その後、鹿鳴館時代が到来し、女子に洋装が取り入れられるとともに、女性の持ち物にもなり、骨よりも柄の長いものが流行し、深張りのものを美人傘とよびました。
布地は、木綿から甲斐絹(かいき)、毛繻子(けじゅす)、琥珀織(こはくおり)など、ぜいたくなものとなり、雨傘ばかりでなく日傘にもなっていきました。

最初に使われた蝙蝠傘という言葉

蝙蝠傘という言葉について一番古く使われたのはいつか?について調べたところ、以下のような記録がありました。

1854年(安政元年)樋畑翁輔が書いた「米国使節彼理提督来朝図絵」にペリー上陸の様子の中に開いた傘と閉じた傘があり、「雨傘、骨鯨にて八本、薄き絹を張り、チヤンを指込たるものと覚ゆ、色黒くして蝙蝠の如く見ゆ」と解説されているのが「蝙蝠」二文字のもっとも古いと思われます。

1860年(万延元年)万延元年の『玉虫日録』第一巻・紐育市の条に「道路往行には、男女皆、蝙蝠傘を携ふ」とあり、『明治事物起原』では、これが文書の上で見られる「蝙蝠傘」三文字の最初であるとしています。

1867年(慶応3)『武江年表』に「此頃西洋の傘を用ふる人多し、和俗蝙蝠傘といふ、但し、晴雨ともに用ふるなり」と書かれています。

蝙蝠は扇の別名

明治41年に書かれた「明治事物起原」には蝙蝠傘の個所に次のように書かれています。
「蝙蝠傘を略して蝙蝠というけれども、蝙蝠は末廣(扇)の異名である」

その扇の誕生は平安時代の初期になります。最初の扇子は、官史たちが記録用として使用していた「木簡」(長さが30cm位の薄板)を綴り合わせて創られたと考えられています。
これが扇子の原形で、「檜扇」となりました。
以後「檜扇」は宮中男子の持ち物として欠くことのできないものになりました。
その後形状は洗練され、扇面は上絵で飾られ、宮中女子の間に広まりました。
続いて竹や木を骨として、扇骨が5本位の片面にだけ紙を貼った「蝙蝠扇(かわほり)」という紙扇が登場しました。
これは扇を開いた形が蝙蝠(こうもり)が羽を広げた姿に似ているからともいわれています。このころから実用的になり檜扇は冬の持ち物、紙扇は夏の持ち物となりました。

洋傘は「開く」、「広がる」、という意味からめでたい祝いの記念品に使われるようになりましたが、同様に扇・末廣も「末広がり」でめでたいことが共通しています。
また、西洋では蝙蝠は不幸の象徴とされていますが、中国では慶事・幸福の象徴とされています。
これらの意味からも当時の人たちは「傘」という言葉と「蝙蝠」という言葉が一緒になることに縁起の良さを込めたのではないでしょうか。

まとめ

現代の傘はカラフルなタイプも多いので、色の黒い蝙蝠と連想しにくいかもしれません。
しかし黒い洋傘を初めてみた昔の人にとっては、広がった傘の形が蝙蝠と似ているということもわかりますね。
明治維新の前後はまだまだ蝙蝠傘は高価なもので、ごく一部の武家や医師、洋学者、裕福な商人、役所の高給取りしか持てないものでした。
高島屋百貨店の前身の高島屋飯田呉服店が明治5年に制定した店員向けの服装の規律では、蝙蝠傘の使用は禁止されていて、商法に出るときはかぶり笠に限るとのことです。
なかなか時代を感じますね。

参考文献
明治はいから物語
明治事物起原
日本大百科全書
洋傘ショールの歴史