実は傘を使う人々、作る人々の間での永遠のテーマともいうべき内容が傘の使い捨ての問題です。大昔の王侯貴族のようなライフスタイルを志向する人は鳴りを潜めたためなのか、人々は物を持たない方向で生活を考えています。「私はこんなにものを持っている」「従者に持たせてあるからいつでも使える」という生き方は、現代では膨大な無駄を発生させる無能というレッテルを張られてしまいます。
過去においては大衆が知ることもなかった富豪たちの生活も、情報化社会においては色々と漏れてしまうこともあり、無駄を発生させる生活を送っていることを大衆に知られる事は彼らの不利になることを知っているため、そうではないとアピールするようになっています。
そして情報工作の結果として、うらやむべき人々が、シンプルやミニマルを追っているという幻想が世の中に流布するようになったので、結果として一般大衆もそのようなものを肯定し、たくさんのものを持つことを否定するようになってきています。
自分たちは持てないのではない、持たないのだ。
このフレーズは実際に物を手に入れることが出来ない大衆に刺さりますので、よりモノを持たないことが良い事であるという考えが進んでいきます。中には物を持つことが可能な富豪の人の中にですら、物を持たないことが良い事であるという考えが進んでいき、昨今の環境破壊問題と結びついて、どんどん大量生産、大量消費社会を否定していくようになったわけです。
さて、傘の場合、出来ればたくさんの傘を持ちたくないというのは「意識が高い」からではありません。単純に雨が降っていない時の傘は邪魔だからです。従者でもいれば使わない時の傘は担当者に持たせることが出来るわけですが、なかなかそのような境遇の人は稀ですから、普段は持たずに必要な時に買うという選択をする人間が出てきます。
つまるところ環境を破壊し無駄を発生させるライフスタイルを肯定してしまえば、楽が出来ると同時に、ある意味昔からある王侯貴族の贅沢も味わうことが可能です。使い捨ての傘が根絶されないのは、このような原因からくるので、今後もしばらくは続きそうではありますね。