傘と文化との関係

洋傘の起源  日本にどのように伝わり、広まっていったか

傘は、雨、太陽、その他の要素から保護するために、世界中の多くの人々にとって不可欠なアイテムです。
しかし、それらはどこから来て、今日私たちが知っている便利なツールにどのように進化したのでしょうか? 傘の歴史は古代文明にさかのぼります。

世界の傘の起源

昔の傘の本来の目的は日よけでした。
それは、今から4000年ほど前の古代エジプトの美術でファラオが傘の下で王位に就いたところを描写しているところから明らかになっています。
ギリシャ人が日傘としてヨーロッパに紹介したといわれていますが、それはギリシャのつぼに一般に使われていたことを想像させる絵が描かれていることが理由です。
ローマの日傘もギリシャ人の使っていたものと似ています。
また中国でも2,000 年以上前に使用され、シルクやその他の素材で作られていました。

中国の発明者

中国では紀元前770年から403年にかけて活躍した建築家・鲁班(Lǔ Bān)の妻・云氏(Yún shì)が、最初に傘を発明したと言われています。
当時の人々は雨の日や暑い夏には屋根のある建物にとどまり、なかなか外出することはありませんでした。
鲁班は数軒の建物を建設中でしたが、強風や大雨の際には外出することができませんでした。
そんな中、鲁班の妻は夫が建てている建物のスタイルに合わせて、軽い竹に油紙を張った傘を作りました。この傘は実質的には移動可能な建物のようなものであり、どこへでも持ち運ぶことができ、どの季節でも使えるものでした。
鲁班の妻は鲁班に対して、「あなたの建てた家は運ぶことができませんが、私の傘はどこにでも持って行けて、どの季節でも使えるのですよ」と言ったとのことです。

このようにして発明された傘は、その後、日本、朝鮮、ベトナム、タイ、ラオスなどの東アジアに広まり、それぞれの国で独自の文化が育まれました。

(参考)和傘の起源

中国では古くから、天蓋式の傘が発展し、それが百済を経由して日本にも伝わりました。
『日本書紀』には、552年に百済聖王(聖明王)の使者が欽明天皇に幢幡(てんばん)を献上したという記述があります。
最初は主に日差しを避けるための「日傘」として使われていましたが、その後、日本独自の進化を遂げ、雨の日にも活用されるようになりました。
江戸時代になると、竹細工や製紙技術の進歩に伴い、和傘が登場しました。和傘は紙製で竹の骨組みと柄が使われており、同じ時期に日傘も一般的な存在となりました。

平安時代の傘
『和名類聚抄』は、承平年間(931-938)に勤子内親王の要望に応えて源順(911-983)が作成した辞書です。この辞書の巻十四「調度部行旅具」には、「簦(トウ)」について次のように記されています。「史記音義によれば、簦は音読みで「トウ」といい、訓読みは「おほがさ」となります。簦は大きな笠で、柄がついている」とのことです。この「簦」という漢字は普段はあまり見かけないかもしれませんが、柄のついた大きな笠を指します。
当時の使用法は『延喜式』に記されています。『延喜式』は967年に作成された法典であり、五十雑には「一般的に簦は、妃や三位以上の高位の人々、そして大臣の正妻が使うことが許されていました」という記述があります。簦は身分の高い人々が差し掛け傘として使用するものでした。

ヨーロッパの変遷

ヨーロッパでは、傘の使用は中世期に一度消えましたが、16世紀後半にイタリアで再び現れ、法王や僧侶などの高位の人々によって高貴さと権力の象徴とされました。
傘はイタリアで登場してから、その後フランスとイギリスでも使用されるようになりました。
18世紀までにはイタリア、フランス、イギリス、ドイツ、オランダなどで一般的に使われるようになりました。
ヨーロッパで傘が雨除けとして広まったのは16世紀に入ってからです。当時の傘はイギリスでは油を塗った紙で作られていましたが、後に絹や防水布に変わりました。ただ、初期の傘は重くて使いにくかったようです。
傘の基本的な構造は何世紀も変わりませんでした。しかし、1852年にサミュエル・フォックスがU字型の溝骨を導入し、産業革命によって紡績や織布、染色などが進歩したことで、軽くてコンパクトな傘が作られ、19世紀後半に普及しました。
一方、傘の手元(ハンドル)は時代によって形が変わっていきましたが、一般的には黒色が多かったようです。
20世紀に入ると、さまざまな色の婦人用傘が登場しましたが、男性用の傘はまだ黒が主流でした。

日本へ 渡来より明治末期まで

洋傘が日本にやってきたのは、文化元年(1804年)に長崎へ入港した唐船が運んできたとされています。この年、長崎に入港した11隻の唐船の中には、「黄とんす傘1本」という積み荷があったと記録されています。
当時はまだ洋傘やこうもり傘という名称は存在せず、傘と呼ばれるものが一般的でした。詳しい説明や入手した人物についての情報はなく、この記録が洋傘輸入の最も古いものとなります。

嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカ合衆国の東インド艦隊司令官であるマシュー・ペリーが蒸気船2隻を含む軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航し、幕府に大統領国書を手渡しました。
翌安政元年(1854年)には日米和親条約が締結され、幕府は下田と函館を開港しました。これにより、欧米からの文化や商品の輸入が増えていきました。その中には傘も含まれていました。
『守貞謾稿』という文献には、「安政以降、横浜の人々がよく西洋製の鍛鉄の8本骨や16本骨の絹傘を晴雨に使っている人が少なからずいました。16本骨の傘は珍しく、8本骨の方が一般的でした。」という内容が記されています。

安政5年(1858年)には日米通商条約の批准書交換のため、正使である新見豊前守正興(外国奉行)を含む76人の使節団がアメリカへ渡航しました。この使節団には仙台藩の士である玉虫左太夫も同行し、彼が万延元年(1860年)にまとめた日記が『航米日録』として知られています。
その中の第五巻「米国総説」では、蝙蝠傘(こうもりがさ)について触れられています。「道路を歩く人々は、男女問わず蝙蝠傘を持っています。女性用の傘は非常に小さく、ただ日光を遮るだけのものです」と記されています。
このことから、少なくとも万延元年までには「蝙蝠傘」という言葉が使われるようになっていたと考えられます。

「横浜開港見分誌」は1865年に書かれました。この本には、蝙蝠傘をさしている西洋の女性の姿を見て、日本の女性や子供たちが驚きながら見学している光景が描かれています。

福沢諭吉が慶応3年(1867年)に片山淳之助の名義で刊行した「西洋衣食住」は、欧米の衣服や道具の使い方について解説した啓発書です。この中で、「傘は絹の布で張られており、日本では傘(洋傘)と呼ばれる。傘を畳むと杖の代わりになる」という内容の説明がされています。

「武江年表」の慶応3年(1868年)の項目には、「この頃、多くの人々が西洋の傘を使っており、それは和風の蝙蝠傘と呼ばれていた。晴れの日でも雨の日でも使われており、最初は武士たちがよく使っていたが、翌年から一般的にも使われるようになった」と記されています。
つまり、幕末期には既にアンブレラ(洋傘)が輸入され、蝙蝠傘と呼ばれていたことが分かります。
この名前は、傘の骨と黒い傘の布の組み合わせが蝙蝠の翼に似ていることから付けられたものでした。洋傘は当時、和傘よりも高価でしたが、文明開化の波に乗って日本で定着していきました。

その後も、しばらく和傘と蝙蝠傘は共存しましたが、戦後の1960年代になると洋傘が和傘を圧倒して普及するようになりました。

部材の輸入と国内産に向けた改良

洋傘も日本国内で受け入れられるようになり、段階的に製品輸入から原材料輸入、そして国産化へと進展しました。

傘の生地については、第一次世界大戦まではほとんどが外国からの輸入品でした。
しかし、日本には絹織物の製造歴史があり、明治時代には比較的早く国内で絹傘の生地を生産することができるようにはなりました。

一方、傘の骨に使用される特殊鋼は、開港後に西欧の産業革命で発展した製鋼技術を導入するため、長い間輸入に頼っていました。
完全な国産化は大正時代になってから実現しました。しかし、その後もスウェーデン鋼の輸入は昭和12年ごろまで続きました。

洋傘の普及に伴って、傘の生地や骨に使用される素材の国内生産化が進んだといえます。

明治時代

明治時代の錦絵に描かれた洋傘は、主に日傘として使われており、軽量で雨をしっかりと遮るスマートなデザインの洋傘を作り出すまでには、まだ長い時間と努力が必要でした。
当時、横浜の伊勢屋勘助商店や日本橋大伝馬町の中島屋小原藤七、麻布飯倉の高瀬商店、神田小川町の甲斐絹屋、そして京橋の仙女香(坂本氏)などの洋傘製造小売店が重要な役割を果たしました。
彼らは原材料の国産化に取り組み、改良の助言者としても活躍しました。
このような努力によって、より優れた洋傘が生まれ、国内で普及するようになりました。

明治時代の17〜18年頃には、三盛舎という企業が結成され、国内で洋傘の生産が始まりました。
彼らは洋傘骨の製造に取り組み、スウェーデンからの輸入品を使用してバネ骨や接骨の製造も始めました。その後、河野寅吉などが改良に努め、低価格の洋傘を製造するようになりました。

明治20年代には、傘骨の需要が急増し、業界内には問屋組織が生まれました。また、傘の付属部品を扱う業者も増え、業界内では分業体制が取られるようになりました。

明治40年には、初めて百貨店(三越本店)で洋傘が販売され、その後他の百貨店でも販売が始まりました。特に関東大震災後の1923年以降は、小売業の中でも百貨店の割合が増え、洋傘の販売も百貨店での取り扱いが主流となりました。

大正時代より終戦期

大正3年に第一次世界大戦が勃発し、洋傘の製造に必要な輸入原料が入ってこなくなりました。
この問題に直面した骨業界では、硬鋼線の焼き入れ技術の研究が注目されました。
そして大正5年には伸線焼入加工が成功し、この課題が解決されました。大阪の骨業者はこの技術を取り入れて香港やインドなどへの輸出を増やしていきました。

洋傘に使われる綿生地は、第一次世界大戦まではほとんどがイギリス、イタリア、フランスから輸入されていました。しかし戦争のために輸入が途絶えてしまい、国内での生地の生産が始まりました。

昭和15年には奢侈品禁止令が出され、パラソルと呼ばれる洋傘の製造が禁止されました。その後、戦争が悪化する中、傘業界も軍需工場の下請けなどをしながら戦争終結を迎えました。

第二次世界大戦後は、洋傘は指定配給品となり、引揚者や戦災者、要保護者、学童などを対象に配給されました。そのため、洋傘の規格は男性用と女性用の2種類で、品質もあまり良くありませんでした。
また、当時の生地は染色が弱く、雨に濡れると色水が衣服を汚すという問題が発生し、ビニールカバーが傘に取り付けられるようになりました。

昭和24年に統制が解除され、価格も自由化され、品質も向上していきました。
昭和26年頃には現在のような折りたたみ傘の形式が開発され、需要の急増によって戦後の洋傘産業が支えられるようになりました。

戦後 折りたたみ傘および合成繊維の開発

昭和29年になると、ホック式の折りたたみ傘が急速に普及していました。
その中で丸定商店は、スプリング式の折りたたみ傘を1回の動作で簡単に開閉できるように開発しました。同じ頃、東洋レーヨンが開発した合成繊維のナイロンが若林株式会社から販売されました。
このメカニカルなスプリング式の骨組みと、軽量かつ防水性が高く、手頃な価格のナイロン生地の組み合わせによって、折りたたみ傘が本格的なブームとなりました。

その後も、ポリエステルの国産化が成功し、テトロン洋傘と呼ばれる合成繊維の傘も登場しました。
これにより、さらに多様な素材やデザインの折りたたみ傘が市場に加わっていきました。

折りたたみ傘の小型化、軽量化、ジャンプ傘

スプリング式の折りたたみ傘が主流となり、長い期間にわたって人気を集めました。
昭和40年には三段式の中棒を持つコンパクト傘が登場し、大変好評を得ました。
その後、三段折りたたみのミニ傘が市場に出回り、傘の小型化が進みました。
さらに、従来の真鍮製の中棒や鉄製の先骨にアルミ合金を使用することで、軽量化された商品が販売されました。
これらの小型化された傘は特に女性に人気がありましたが、一方で男性にはダイナミックな構造を持つジャンプ傘が人気を集めました。
実は戦前からジャンプ傘という機能を持った傘は存在しており、戦後には関西地区の業者によって多くの輸出が行われました。しかし、この時期には海外の輸出市場は発展途上国に奪われつつあり、国内販売に注力する必要が生じたことも、ジャンプ傘の人気高まりの一因となりました。
最初はほとんどが輸出向けのB式ジャンプ傘が流通しましたが、昭和45年ごろからは中棒にボタン装置を取り付けたA式ジャンプ傘が販売され、その後もさまざまな改良が行われました。

(昭和40年頃の景色)

多様化、ファッション化、ビニール傘

戦後20年以上にわたり、折りたたみ傘と合成繊維の開発によって支えられてきた傘業界も、流通機構や消費動向、そして昭和48年の石油ショックや発展途上国の急速な追い上げなどの影響で低迷期に入りました。
この時期、有名デザイナーブランドがファッション性の高い傘を発売し、百貨店の傘売り場を席巻するようになりました。このことにより、洋傘が高級品としての地位を確立していくこととなりました。

また、これまで洋傘需要の増加に寄与してきた要素の一つとして、ビニール傘が挙げられます。
昭和25年ごろに登場したビニール傘は、冬には硬くなり夏には柔らかくなるという特徴を持ち、価格も約2,500円ほどでした。
初期の頃はビニールによる傘カバーが色落ちの問題を解決する役割を果たし、昭和27年ごろにはよく売れました。しかし、色落ちの問題が改善されると、傘カバーの需要も減少していきました。
昭和30年代には、透明で見通しが良く、価格も安いという理由からビニール傘の生産量が増加しました。
そして昭和40年代には、安価なビニール傘が一般的なイメージとなっていました。
関税の影響でアメリカ市場向けに台湾がビニール傘の組み立て拠点となっていたため、国内技術が流出し、台湾企業によってアメリカ市場が奪われました。
これにより、日本企業も他の東アジアの国に製造拠点を移しました。その結果、昭和62年には輸入品が国産品を逆転する状況となりました。
バブル崩壊以降、中国産のビニール傘が市場の95%以上を占め、傘全体の需要の50%~60%を占めるようになりました。
以上のような経緯を経て、傘業界は大きな変革を迎えました。

まとめ

傘の歴史は紀元前4000年頃から始まり、古代文明の中で権力の象徴として使われ、その後一般の人々が気軽に雨風や日差しを避けるために携帯できるようになるまで長い道のりがありました。

傘はおしゃれなアクセサリーとしても人気があり、男女を問わず広く愛用されるようになりました。
今日、傘は世界中の人々にとって必需品となっています。
黒いクラシックな傘から、カラフルで模様のあるデザインまで、さまざまなスタイルとデザインが存在します。また、ナイロンやポリエステルなどの防水生地を使った傘もあります。

傘には何千年もの長い歴史があり、魅力的な存在として続いてきました。古代エジプトや中国の起源から現代の実用的でスタイリッシュなアクセサリーとしての使用まで、傘は進化し、人々のニーズに合わせて変化してきました。

傘は昔から変わってないと思われがちですが、実際にはさまざまな進化を遂げています。
傘に関するコラムを読んだり、周りの人々に話すことで、その変化について詳しくなり、興味深い情報を共有することができると思います。

参考図書
東京洋傘産業史(昭和54年)
洋傘ショールの歴史(昭和43年)
傘の歴史と民俗1― 和傘の成立と展開 ― 段上達雄
アクセサリーの歴史事典[下]脚部・腕と手・携行品
チャイニーズドットコム中国語教室「中国の傘と雨ガッパ:知っておきたい歴史と現代の活用法」https://www.1chinese.com/ala/3303/