傘と文化との関係

日本の伝統工芸と傘の魅力

傘は古くからあるモノ、と傘全集のコラム等でお伝えしてきました。
古くからあるモノといえば、古くからある技法を使って芸術的な製品を作る伝統工芸というものがあります。
傘に関しては、多くの県では特産品の和傘が伝統工芸品に認定されています。また、東京では洋傘が伝統工芸に認定されています。
和傘の歴史は1,000年以上も前から続いていますが、洋傘は日本に伝わってから150年ほどの歴史です。
そこで、伝統工芸とは、どうすれば認めてもらえるのか、そもそも伝統工芸の定義とは何か?気になってきたので調べてみました。

伝統工芸の定義とは

1974年、日本の伝統工芸を守り、技術を受け継ぐ法律「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」が制定されました。
この法律に基づいて、経済産業大臣によって、全国の伝統工芸の中でも代表的なものが「伝統的工芸品」として指定されています。

令和5年11月1日現在、経済産業大臣が指定する「伝統的工芸品」は全国に241品目あります。

経済産業省 伝統的工芸品

https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/nichiyo-densan/index.html

その指定要件は
・主として日常生活の用に供されるものであること。
・その製造過程の主要部分が手工業的であること。
・伝統的な技術又は技法により製造されるものであること。
・伝統的に使用されてきた原材料が主たる原材料として用いられ、製造されるものであること。
・一定の地域において少なくない数の者がその製造を行い、又はその製造に従事しているものであること。

の5つです。
中でも、伝統的と認められるためには100年以上の伝統があること、とされています。
このほかにも、各都道府県の知事が指定する各都道府県を代表する伝統工芸品もあります。

伝統工芸のうち傘関係で指定されている、和傘を現在も生産している産地

岐阜和傘(国・県指定)

岐阜和傘の歴史は、1639年に松平丹波守光重が明石藩から傘職人を連れてきたことが始まりとされています。当時は武士の内職として奨励され、生産が盛んになりました。明治時代以降は産業として隆興し、大正から昭和初期にかけてピークを迎え、月間数百万本もの和傘が岐阜で作られたと言われています。
岐阜市は、美濃和紙や良質な竹が手に入りやすい場所であったため、江戸時代から和傘の生産が受け継がれてきました。

東京洋傘 東京都台東区・中央区他(都指定)

2018年3月22日、「東京洋傘」が東京都の伝統工芸品として指定されました。
1854年(安政元年)にペリーが日米和親条約締結のために浦賀に来航した際、洋傘が持ちこまれ、世間の注目を浴びたと言われています。1872年(明治5年)に洋傘製造会社が組織され、東京の職人たちの手により東京洋傘の本格的な生産が始められました。骨屋、手元屋、生地屋、それらを組み立てる洋傘職人による分業で行われています。

東京と産業労働局 東京の伝統工芸品「東京洋傘」

花巻傘 岩手県花巻市(市指定)

花巻傘は享和年間(1801〜1803)のころ、花巻で傘の製造をしたのが起源と言われています。
江戸時代に流浪した熊本士族の千葉左近が、糊口のために傘を製造したことが始まりとされています。
藩政時代は士族の内職として始まりましたが、明治維新後は本職となりました。
大正8、9年には年間25万本ほどを生産する花巻物産の一つとなりました。

和傘 山形県山形市

山形の傘づくりは、寛政元(1789)年、矢田目清太郎が始めたと伝えられます。その後、嘉永2(1849)年に遠州浜松から水野藩が山形に転封すると、山形城下の下級武士に傘づくりを奨励。出羽三山参りの行者から好評を博し、最盛期には100軒を超える東北一の和傘生産地となりました。一時期百件を越えた和傘業者も、現在では一軒のみとなりました。
作品は表面にベンガラを施し、亜麻仁油、桐油で防水仕上げをしています。

佐原(和)傘 千葉県香取市(県指定)

香取市佐原地区で製作されています。江戸時代以来の和傘製造技術を生かし、歌舞伎などの伝統芸能に使われる舞台用の傘がつくられています。

安島傘 長野県喬木村

阿島に陣屋を構えていた知久氏は知行三千石の旗本で、慶長六(1601)年以来江戸幕府の命で浪合の関所(現在の下伊那郡阿智村)を守っていました。
うららかな春の日、この関所を通りかかった一人の旅人が腹痛で苦しんでいるのを、関所守が番屋に泊め懇ろに介抱しました。快癒した旅人は御礼に傘作りを伝授してくれました。
和傘には骨になる竹(マダケ)と雨よけの和紙はもちろんのこと、骨をつなぐろくろ(ジシャ・ミネバリ・ヤシャブシなどの広葉樹)、のりとなるわらび粉、油、柿渋など、様々な材料が必要となります。
知久の殿様は、領内に傘作りに必要なこれらの材料が揃っているのに目をつけ、この地域の地場産業として広められました。
その結果阿島傘は当地の一大産業となり、最盛期には100軒以上の傘屋が阿島に軒を連ねました。

金沢和傘 石川県(希少伝統的工芸品)

明治・大正時代の最盛期には、金沢に118軒の傘屋があり、金沢傘の名で県内外に売られていました。しかし、昭和30年頃以降、洋傘が普及し、和傘の製造は激減しました。
原料は、かつて金沢周辺に群生していた孟宗竹と五箇山の楮を使い、傘の中心部に和紙を4重に張るとともに周辺部に糸を2~3重に張り、破損しやすい部分を補強するなど、他の和傘に比べて丈夫であることが特徴です。

伊賀傘 三重県伊賀市

伊賀の和傘は、江戸時代の初代津藩主・藤堂高虎が、伊賀の竹林の多さに目をつけ、武士の副業として始めたとされています。大正時代に最盛期を迎え、全国二、三番目の生産量を誇りましたが、洋傘の普及もあって従事者は減り続けました。

淀江傘 鳥取県米子市(市指定無形文化財 淀江傘製造技術)

江戸時代後期の文政4年(1821年)に倉吉から淀江に来た倉吉屋周蔵が傘屋をはじめたことが始まりです。 淀江は、傘の原料となる竹材を入手しやすく、また日野川沿いの砂地に傘を1万本以上干すことができる土地柄でした。 そういった背景もあり、大正時代には製造業者が71軒、年間生産量は17万本にも上る“傘の街"に発展。昭和51年に淀江傘製作技術が旧淀江町の指定無形文化財に指定されています。
淀江傘は番傘、蛇の目傘が主流で、実用性に富み、丈夫なことで知られています。蛇の目の形(梅の花型、亀甲)や特有の糸飾りに特徴があります。
淀江傘の製造技術を伝承するため、昭和60年に「淀江傘伝承の会」を発足し、活動を続けています。

和傘 広島

広島における和傘づくりの歴史は古く、元和5年(1619)浅野長晟が藩主として入国した際、和歌山から移住して藩の傘御用を務めた傘屋庄右衛門に始まるといわれています。安永9年(1780)、広島から他国へ移出した傘は、13万本に及ぶという資料もあり、和傘づくりがとても盛んであったことが分かります。また、幕末期における広島城下の傘職人は、ロクロ師や傘張骨師などを合わせて約130人を数え、藩も積極的に助成していました。
明治に入ってからも和傘づくりは盛んに行われ、大正9年(1920)に最盛期を迎えましたが、大正時代の終わりから洋傘に押されて衰退に向かい、昭和10年(1935)の生産額は最盛期の約4分の1強にまで落ち込みました。第二次世界大戦中には、再び活気を取り戻し、戦後しばらく続いたようですが、その後は、洋傘に圧倒されていきました。

高松和傘 香川県高松市(県指定)

高松和傘は、高松特産の手すき和紙と、塩江などの山間部で豊富にとれる竹材を使い、明治20年に岐阜産の日傘を参考に作られ始めました。日本舞踊に使う舞傘や観光土産などとして、根強い人気がありました。蛇の目や渦巻き、藤流れなどの伝統的図柄に加え、現代的デザインも多彩です。

美馬和傘 徳島県美馬市

水間町地区では、昭和20年頃には200軒余りが和傘製造に携わり、最盛期には年間90万本近い和傘が生産されていました。

筑後和傘 福岡県久留米市(県指定)

筑後和傘の起源は、17世紀初めに地元の日吉神社の神官が副業として作ったことと言われています。
柄や傘骨の材料となる真竹が筑後川経由で入手できたこと、和紙や柿渋の名産地が近かったこと、技術を持つ職人が多かったことなどを背景に、和傘の一大生産地となりました。昭和20年ごろ、町内に500人いたとされる職人も今は途絶え、地元・城島の伝統を残そうと発足した保存会により、技術が継承されています。

中津和傘 大分県中津市

中津和傘のはじまりは江戸時代に遡ります。財政難にあった中津藩が、傘の原料となる竹や和紙、油、柿渋が地元で調達できることから製造を始めました。幕末にかけて武士の内職としても和傘作りは広まり、最盛期となった昭和初期には70軒ほどの和傘屋が軒を連ねていたといいます。

世界の工芸品

世界の有名な工芸品の一部を以下に紹介します。

マイセンの陶磁器
ゾーリンゲンの刃物
エルツ山地の木工芸品
シュバルツバルト地方の鳩時計
マーブル紙
チェコのグラス
ベネチアのガラス

世界で傘を伝統工芸としているところは以下があります。

タイ北部 ボーサーン村

ボーサーン村の傘は、村の修行僧が隣接するミャンマー(ビルマ)へ赴いた時にその生産方法を学習し村人に伝授したと伝えられたもので、やがてボーサーン村ではどの家も唐傘を作るようになりました。
1941年には村人で組合を結成、本格的にボーサーン村の傘の生産が始まりました。鮮やかな色合いと独特の絵柄のボーサーン村の傘は、今もチェンマイを代表する伝統工芸品として人気があります。

インドネシア

西ジャワ州の地方都市タシクマラヤでは、鮮やかな色使いや絵柄が印象的な伝統の傘作りが盛んです。職人がほぼ手作りしています。傘産業は1970年代以降、輸入品が流入し一時廃れました。しかし、80年代に土産物や室内装飾品としての価値が見直されたといいます。
中ジャワ州ソロでは、「インドネシア・パラソル・フェスティバル」で、布と竹で作る伝統的な傘の製作工程を見せる職人を見ることができます。

まとめ

伝統工芸品と傘の関係について調べてみました。
日本では法律に基づいて伝統的工芸品の基準が定められており、岐阜和傘が国の指定を受けています。また、県や市などでも地域の伝統工芸に対して指定をするなど、保存に向けた取り組みがありました。
国内の多くの地区の和傘と東京の洋傘が伝統工芸の対象となっています。また、東南アジアでも伝統工芸と位置付けられている傘がありました。
伝統工芸品は、工芸としてのクオリティと芸術的な美しさ、長い年月による洗練さが組み合わさり独自の魅力を発揮しています。
もしかしたら、現時点では伝統工芸ではないモノでも数十年か数百年後には伝統工芸品になっているかもしれないですね。

※和傘に関連した記事はこちら「和傘の種類と江戸の傘張について」